アナ・デ・アウストリア(Ana de Austria, 1549年11月1日 - 1580年10月26日)は、スペイン王フェリペ2世の王妃。ドイツ語名アンナ・フォン・エスターライヒ(Anna von Osterreich)。
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父は神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世、母は皇后マリア(フェリペ2世の妹)。バリャドリッドで生まれ、4歳からウィーンで育った。
初めは従兄のスペイン王太子ドン・カルロスと婚約していたが、カルロスは1568年に死去した。同年に3度目の王妃エリザベート・ド・ヴァロワを亡くしたフェリペがアナを王妃に望んだが、フェリペとアナが実の伯父・姪の間柄であるため、ローマ教皇ピウス5世が反対した。
結局、教皇が認可したため、2人は1570年5月プラハで結婚した。2人の間には5子が生まれた。
フェルナンド(夭折)
カルロス・ロレンソ(夭折)
ディエゴ・フェリックス(夭折)
フェリペ3世(1578年 - 1621年)
マリア(夭折)
1580年、フェリペはポルトガルを併合したため、アナはポルトガル王妃になった。しかし同年、アナは接触性の伝染病にかかり、バダホスで急逝した。
アンナ・フォン・ティロル(Anna von Tirol, 1585年10月4日 - 1618年12月14日)は、神聖ローマ皇帝マティアスの皇后。
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インスブルックで生まれた。父はオーストリア大公フェルディナント(フェルディナント1世の二男)、母は2度目の公妃アンナ・カテリーナ・ゴンザーガ(マントヴァ公グリエルモ1世の娘)。1611年に従兄マティアス(当時ハンガリー王およびボヘミア王)と結婚。1612年、夫の皇帝即位とともに皇后となった。
1618年、夫より3ヶ月余り先にウィーンで死去。2人の間に子はなかった。
アンナ・フォン・エスターライヒ(Anna von Osterreich, 1573年8月16日 - 1598年2月2日)は、ポーランド王兼スウェーデン王ジグムント3世ヴァーサの王妃。ポーランド語名ではAnna Austriaczka, Anna Habsburzanka, Anna Rakuszanka, スウェーデン語名ではAnna av Steiermarkと呼ばれた。
オーストリア大公カール2世とマリア・アンナ・フォン・バイエルン(バイエルン公アルブレヒト5世とアンナ・フォン・エスターライヒの娘)の娘としてグラーツで生まれた。兄に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世、オーストリア大公レオポルト5世、妹にマルガレーテ(スペイン王妃)、コンスタンツェ(ジグムント3世の後妻)がいる。
1592年5月31日、ジグムントと結婚。この結婚は、ジグムントがハプスブルク家と同盟することを危惧する、ポーランド・リトアニア連合の貴族たち(シュラフタ)に反対された。
ジグムントが、アンナを迎えにラジウィル枢機卿をプラハに派遣したとき、国境を守る反ハプスブルク派のヤン・ザモイスキはアンナ大公女一行の入国を妨害した。アンナは妨害をくぐりぬけてクラクフに到着し、王妃として戴冠した。2年後スウェーデンで、スウェーデン王妃として戴冠した。
アンナは決して美人というわけではなかったが、ジグムントと仲の良い夫婦だった。アンナはかつての敵と友好関係を結ぶよう努力し、彼らの尊敬を勝ち得た。彼女の存命の間に、ジグムントはポーランドの首都をクラクフからワルシャワに遷都した。アンナは末子クリツィスツォフを出産後に死去した。ジグムントは後添えとしてアンナの妹コンスタンツェと再婚した。
[編集] 子供
アンナ・マリア(1593年 - 1600年 夭折)
カタジナ(1594年 夭折)
ヴワディスワフ4世ヴァーサ(1595年 - 1648年)
カタジナ(1596年 - 1597年 夭折)
クリツィスツォフ(1598年 夭折)
コンスタンツェ・レナーテ・フォン・エスターライヒ(Constanze Renate von Osterreich, 1588年12月24日 - 1631年7月10日)は、ポーランド王ジグムント3世ヴァーサ(スウェーデン王でもあったが廃位されていた)の2度目の妃。ポーランド語名はKonstancja AustriaczkaまたはKonctancja Rakuszanka。
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オーストリア大公カール2世(神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の弟)と妃マリア・アンナ・フォン・バイエルンの娘として生まれた。兄に皇帝フェルディナント2世、オーストリア大公レオポルト5世、姉にジグムント3世の前妻アンナ、スペイン王妃マルガレーテがいる。
姉アンナが若くして亡くなると、ジグムント3世の後添えとして1605年12月に結婚した。コンスタンツェは優れた政治家で、国内の重要な貴族と自分の侍女らの縁組を推進し、味方に取り込んだ。また非常に信心深く、毎日2度ミサに出席した。彼女は画家と建築家のパトロンだった。
[編集] 子供
ヤン・カジミェシュ(1607年 - 1608年)
ヤン2世カジミェシュ(1608年 - 1672年) ポーランド王
ヤン・アルベルト(1612年 - 1634年)
カロル・フェルディナント(1613年 - 1655年)
アレクサンデル・カロル(1614年 - 1634年)
アンナ・コンスタンティア(1616年 夭折)
アンナ・カタジナ・コンスタンツェ(1619年 - 1651年)
マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (Margarete von Osterreich,1584年12月25日-1611年10月3日)は、スペイン王フェリペ3世の王妃。スペイン語ではマルガリータ・デ・アウストリア=エスティリア(Margarita de Austria-Estiria)。
オーストリア大公カール2世(マクシミリアン2世の弟)とマリア・アンナ・フォン・バイエルンの娘としてグラーツで生まれた。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の妹。姉にアンナ、妹コンスタンツェがいる。
1599年にフェリペと結婚。宮廷で芸術家たちのパトロンとなった。フェリペとの間に7子をもうけた。
アナ(1601年 - 1666年) フランス王ルイ13世妃(フランス名アンヌ・ドートリッシュ)。
マリア(1603年 夭折)
フェリペ4世(1605年 - 1665年)
マリア・アナ(1606年 - 1646年) 神聖ローマ皇帝フェルディナント3世妃。
フェルナンド(1609/1610年 - 1641年) 枢機卿。スペイン領ネーデルラント総督。
マルガリータ(1610年 夭折)
アルフォンソ(1611年 夭折)
ワルシャワ(Warszawa;ヴァルシャヴァ)は、ポーランドの首都でかつポーランド最大の都市。マゾフシェ県の県都。中央ヨーロッパの政治、経済、交通の要衝でもある。ヴィスワ川の中流、マゾフシェ地方に位置し、市内をヴィスワ川が貫通する。第2次世界大戦後、戦火で荒廃したが、「煉瓦のヒビに至るまで」復元して往時の町並みを回復した1980年にユネスコによって「ワルシャワ歴史地区」として世界遺産に登録された。
製造業、鉄鋼業、電機産業、自動車産業などの工業都市であり、ワルシャワ大学を初めとするポーランド有数の高等教育機関が集中し、歌劇場やワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団を有する文化都市でもある。
日経225
ワルシャワの中心市街目次 [非表示]
1 歴史
2 地理
2.1 気候
3 経済
4 文化
5 交通機関
5.1 空港
5.2 鉄道
5.3 市内交通機関
5.3.1 バス
5.3.2 トラム
5.3.3 地下鉄
6 主なランドマーク
7 ワルシャワに縁のある著名人
8 姉妹都市
9 ギャラリー
10 関連項目
11 外部リンク
[編集] 歴史
ワルシャワ (Warszawa)
位置
情報
県: マゾフシェ県
緯度: 北緯 52°13'
経度: 東経 21°02'
標高: 115m
面積: 516.9 km2
人口
- 合計
- 人口密度
約1,689,600 人
3258 人/km2
郵便番号: 00-001 〜 04-999
市外局番: 022
市長: ハンナ・グロンキェヴィチ・ヴァルツ (Hanna Gronkiewicz-Waltz)
公式サイト: 市公式ウェブサイト
ワルシャワについての最古の文書は13世紀、1285年のものである。当時のワルシャワはマゾフシェ公爵領に属し、漁業を中心とする寒村であった。マゾフシェ公爵家の家系の断絶に伴い、マゾフシェ地方はポーランド王国に編入された。1596年、ジグムント3世による野心的な政策によってポーランド王宮廷は古都クラクフより移転し、ワルシャワは1611年に正式にポーランドの首都となり、以来、「北のパリ」として発展を遂げる。
1795年の第三次ポーランド分割でプロイセン領に組み込まれた。1807年、プロイセンを征服したフランスのナポレオンが、ティルジット条約によってワルシャワ公国を建てるが、ナポレオン失脚にともなうウィーン会議で、多くのワルシャワ公国の地域はポーランド王国(ポーランド立憲王国)とすることが確認され、ロシア皇帝アレクサンドル1世がポーランド国王の座につくことになった。
外為
独立を喪失してから、ワルシャワは幾度となく民族運動の中心地となった。1830年には、フランス七月革命の影響もあり、十一月蜂起(ワルシャワ蜂起)が起こったが、翌年までに無惨に鎮圧された。1815年に成立したポーランド王国(ポーランド立憲王国)では、自由主義的な憲法が規定されていたが、その多くはこれを機に形骸化された。1860年代前半にも民族運動が高揚し(一月蜂起)、一時はワルシャワにポーランド人の臨時政府も成立したが、再びロシアによって鎮圧された。当時のロシア皇帝は開明的なアレクサンドル2世であったが、この事件を受けてポーランドに対してはロシアへの同化政策を図るようになる。